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御礼

 投稿者:西組の『紙ヤさん』  投稿日:2014年 4月20日(日)18時14分59秒
返信・引用
  中子さん 白山神社の坂下し2日共 見物いただきありがとうございました。
おまけに画像のアップお礼申し上げます。来年もお待ちしています。
 
 

協和のお祭り

 投稿者:中子  投稿日:2014年 4月16日(水)10時50分26秒
返信・引用
  日本一との、坂下し。二日間とも見学させていただきました。あの急坂を!見事です。
名鉄の踏切渡るのも見応えありますね。
 

Re: 調子狂います

 投稿者:西組の『紙ヤさん』  投稿日:2014年 4月11日(金)18時11分16秒
返信・引用
  > No.1772[元記事へ]

西組の『紙ヤさん』さんへのお返事です。

> 自称 日本一の白山神社 坂あげ・坂下しの時間が、毎年と違います
>
>   12日 土曜日
>          坂あげ・13:20から
>          坂下し・16:50から
>
>   13日 日曜日 坂あげ・11:40から
>          坂下し・16:40から
>
>                  以上の予定です
> 坂あげ・一見そんなに変わらない様ですが、長年の時間と
> 違っていると なんか調子狂うなー
> 白山見物の常連様 時間にはご注意ください!
> 特にnovaさんの様に分刻みで移動される方には、スケジュールの
> 変更が出ますかな

  novaさんへ 坂あげの時間が土曜日で2時間
               日曜日は1時間
         位、早くなっています。
 博物館への休憩も無く お神楽を奉納し白山へ向います
 今年は博物館へ砂子組は時間が、無いためか行きませんですヨ!!
 

調子狂います

 投稿者:西組の『紙ヤさん』  投稿日:2014年 4月10日(木)17時52分36秒
返信・引用
  自称 日本一の白山神社 坂あげ・坂下しの時間が、毎年と違います

  12日 土曜日
         坂あげ・13:20から
         坂下し・16:50から

  13日 日曜日 坂あげ・11:40から
         坂下し・16:40から

                 以上の予定です
坂あげ・一見そんなに変わらない様ですが、長年の時間と
違っていると なんか調子狂うなー
白山見物の常連様 時間にはご注意ください!
特にnovaさんの様に分刻みで移動される方には、スケジュールの
変更が出ますかな
 
    (nova) 坂下しの時間が遅うなった?
 

今は幻か

 投稿者:きさらぎ  投稿日:2014年 4月 8日(火)18時56分43秒
返信・引用
  備忘録様
現代の人達には知るべくもない様子が伝えられ興味深く拝読しました。
私は直接は体験していませんが父方の祖母は長者町で盛栄連と浪越連の芸妓に岸沢常磐津と西川舞踊の教授をしていました。
その辺りの事は私のHP「葵町の暮らし」「祖母岸沢式治と常磐津」に記しました。
中市場町の「木屋」さんとは縁故があり、奥様(故人)とは、お話したことが何度かありました。
奥様は清州が御実家で、ご主人の事は聞いていませんが「清州越し」で名古屋で、ご商売と思われ官庁御用達もされ繁栄されました。
今は何代目かの方がベルギービールの特約販売(ネットも含む)をされているようです。今は疎遠になりました。
私は昭和11年生まれですが当時の姿は探しても見付からなくなりました。
私の記憶はメデイアに「自分史」として保存、親族には渡してありますから継続伝達されれば何時かは役立つかもしれません。
それが役目だと思っています。

http://www7b.biglobe.ne.jp/~kisa/

 

かわりゆく季節 

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月25日(火)22時46分42秒
返信・引用
  あたたかくなり桜の花も咲き始めました
名古屋で一番早く咲く東区舎人町の寒緋桜、大寒桜はすっかり満開のようです

市内の交差点の桜(種類はわかりませんが)、新栄の交差点の枝垂桜もきれいです。

碁盤割の町々には、ここ一週間前から、東照宮祭のポスターが貼られております。赤地に葵の紋のシンプルなデザインは変わりません。
残念なのは 16日舞楽 とあるだけなのがさみしいです。

街の移り変わりは激しいです
円頓寺の鬼子母神堂がなくなりました。たぶん本堂に鬼子母神をうつしたのでしょうか
大正時代改築の堀川の中橋が3月24日から架け替え工事が始まりました。古い鉄骨造ですので文化財でもおかしくないと思います。

御園御門の土手を見ますとたくさんタンポポが咲いています。
春には春の花が咲く。自然は偉大です。

足は幅下へと向います、比米町(ひめまち)の藤田先生の稽古場を通り過ぎ、幅下学校の北に向かうと
六句町があります。幅下学校の北側は空襲から逃れた数少ない地域です。古い建物が残っています。

しかし、維新後、城内の建物を移築したという万声社という楽器屋さんの建物はすでに無くなっています。

足を北へ進めます。
3月初旬から、取り壊し中のある一軒の町家はすべて壊し終わり整地中でした。

解体屋さんに聞くと四代くらい続いた家だったそうです。二階建ての母屋、奥に差し下ろし(小屋)と土蔵がある典型的な、名古屋の町家でした。
解体中見ていますと、ニワ(通り庭)にレンガのくど、上は吹き抜け。ミセ、ナカノマ、オクと座敷が並びます。
階段はナカノマにあり箱階段になっていました。黒光りした柱、おそらく明治以前のものでしょう。
人知れず古い建物が消えていきます。

本町通り鉄砲町に八木文株式会社という繊維問屋がありましたが、3月初旬に錦二丁目に移転しました。

気になるのは、鉄砲町の建物がどうなるかです。奥に大正15年くらいに建ったという鉄筋コンクリートの倉庫があります。今はビルに隠れて見えませんが、「文木八」と大きな文字が書かれております(モルタルのこて仕上げ?)
 

祭礼時の町のしつらえ:提灯・幕

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月25日(火)08時02分23秒
返信・引用
  江戸時代の祭りのしつらえや町の装飾の様子は猿こう庵などの資料がわかりやすいが、
まだ記憶に残る昭和の様子としては、提灯と幕であろう。

今でも多くのお祭りではそうであるが、
各戸、入口に提灯(支柱を立て屋根つき、または傘つきの高張提灯)、
間口一面に幕を張る(素材は木綿の丈夫なもの)注1記載写真参照

名古屋中心部では面倒なのか、知らないのかすっかり廃れてしまった。あたりまえのことも生活の変化にともない変わってしまった。

幕は、家紋の入った横じまの幕(幔幕、鯨幕)よくあるのは白と浅黄(水色ぽい)の交互の縞をよくみる。これは祭り以外に、慶事(婚礼、また正月)に使う。

町内によっては家紋ではなく町の紋を染め抜いたある。たとえば鉄砲町は鉄の字を図案化し、黒白幕。
末広町は、末の字を図案化し、海老茶と白の幕。

伝馬町は、山車にちなみ鶴丸の紋、宮町は宮の字(*2掲載写真)であった。

色であるが、鉄砲町の黒白という色、横じまであるので、葬式でよく使う縦じまではないが、黒は凶事ではなく、ハレ(非日常の)の色ということであるので、現在の色彩感覚とちがう。

葬式でも昭和40年ころまで喪主は、白の裃であったことをご存知の方も多いであろう。

提灯は、「献燈」「御神燈」の文字を独特の書体で書き、町内に関係する字を図案化し、たとえば玉屋町なら、玉の字の連続したデザインであしらったりする。

提灯をともす支柱であるが。角柱や丸棒とある。舗装してないころは土中に突っ立っていたと思うが、昭和の舗装された本町通りは、歩道の平板をどけると地中に土管が埋めてありそこに挿すように工夫してあった。
今でも、京都やどこでもそれぞれ工夫して提灯をともしている。


かつては各家々で親類知己を招いて歓待した。だんだんそれもなくなってしまった。(名古屋中心部での話ではあるが)
屏風や毛氈は各家あったようではあるが、昭和に入ると使われることが少なくなった。



*1 桑名町湯取車の写真
  揚輝荘の日々(2010年10月1日付ブログ)
    「松坂屋と三菱東京UFJ銀行のルーツを探る(その九)伊藤 宗太郎
  名古屋碁盤割り 続 商家と庶民の暮らし(明倫会/編集 平成15年)


*2 白木洋紙店45年のあゆみ(昭和41年発行)
 

東照宮祭若宮祭山車保管形態

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月23日(日)06時03分5秒
返信・引用
  戦前の様子や収蔵状態の写真・映像を筆者は見たことがないので類推になるが
現在、主流の山車が組み立てられた状態での収蔵庫は当時なかったと思われる。
このことはあえて書く必要がないかもしれないが、県内外の比較を考えると興味深い。

祭礼時の安置している写真では、道路上の山車の周囲は矢来を組んで、時には屋根に雨障子を載せられたものを散見するが、識者のご意見を乞い願う。


新修名古屋市史民俗編の聞き取り調査では、山車の部品すべてが、同一の箇所(特定の蔵など)に収めきれず、個人宅においては縁の下、ニワ(通り庭・土間のようなもの)に置くこともあったようである。
 

若宮祭黒船車保管場所について

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月22日(土)08時39分6秒
返信・引用
  昭和20年3月19日空襲焼失時

山車本体
若宮八幡社境内土蔵(間口3間奥行5間 火災保険証書記載より)
(現在、祭り当日に末広町テントが設営される場所と同定される。江戸時代刊行の『尾張名所図会』若宮八幡宮の絵に「黒船車のくら」記載あり)

大幕(大濤の図 山本梅逸下絵)
井上仏具店土蔵(店主 井上新三郎)末広町三丁目西側 若宮表門の向かい側
空襲に土蔵は焼け残ったが、数日後、内部から発火し土蔵崩壊焼失(『祖父・父を憶ふ』井上礼之助/著より)

その他祭礼道具
末広町会館(財団法人末広町八幡講所有 もと末広町共有家屋:母屋木造2階建て 土蔵平屋)

通常は貸家、祭礼時「祭り宿」として機能する。
空襲前まで「東亜マネキン」というマネキンディスプレイの商店に賃貸
現在末広会館がある場所。末広町二丁目東側

山車の飾りつけは、この末広町共有家屋前で行われた。

町内関係のものとして
若宮表門横に「末広町巡査派出所」(交番)があり、
戦後はこの建物に、末広町の最後の町小使であられた赤塚林蔵氏がつめていた。
のちに境内東南角に曳き家され昭和60年ころまで残っていた(和風入母屋平屋RC造)
 

車の町の山車保管場所について

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月22日(土)05時37分18秒
返信・引用
  車の町(くるまんちょう、車町・車之町とも)
名古屋市中区丸の内一丁目から二丁目にかけて東西の通りである「魚の棚」筋(地元の慣用的な発音は「うぉんたな」)にある町

車の町は、魚の棚筋の堀川より桑名町までをいう。

天王祭(那古野神社)の台尻車(車楽)を出す町というので、車の町と名付けられたという。

町内には、真宗高田派の広井山至誠院がある。現在は入り口が伏見通りからの接続であるが、戦前は車の町に門があり、朱塗りだったため別名、赤門寺とも呼んだ。

3年ほど前になくなったお庫裏さんに聞くところによれば、向かいにあった山田さんという昆布屋(戦後転居)に山車があったという。

ただ車楽のことか、和布刈車のことかはわからない。
 

東照宮祭山車の保管場所について

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月21日(金)04時20分45秒
返信・引用
  1998年当時町内関係者への聞き取りによる(未定稿)
原則的には昭和時代(空襲焼失時という理解でよいと思う)

本町猩々    御幸本町通三丁目東側 花井氏
伝馬町鶴    伝馬町長者町北へ入る 渡辺氏
和泉町雷    和泉町二丁目南側 大西氏
桑名町お湯取  桑名町二丁目西側 町内?
宮町唐子    神楽町(現テレビ塔)南側 三輪氏
上長者町二福神 上長者町三丁目西側 町内?
京町小鍛冶   京町三丁目北側 朋友商会社員某氏
中市場獅子   中市場町二丁目北側 松田氏
七間町弁慶   七間町四・五丁目 個人宅か


明治以後、町内持ち家の売却など、共有土地、家屋が処分される傾向があり
個人所有の蔵などを借りて収蔵することが多かったようだ。

桑名町、上長者町は町内持家があったようだが調査が必要。
京町は、町内共有土地があったことは、資料から存在が確認できるが
山車に関しては個人の家の蔵を借りている。
 

東照宮祭七間町牛若丸のかしらについて

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月20日(木)08時03分29秒
返信・引用
  これも前に書いた記憶があるが

牛若丸のからくりは、右足を軸に橋の欄干で回転する。

安阿弥氏によれば、高速回転するのでたまに、首が飛ぶことがあったらしい。そのため頭がひとつだけでなく、二つはあったそうだ。

焼け残ったのは、古いほうの頭が残ったのでは、とのこと。

『尾張年中行事絵抄』に牛若の頭を社壇に納め、祀る様子が描かれているが、たしかにそういうことをやっていたと話されていた。
 

東照宮祭七間町(補筆)

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月20日(木)07時36分1秒
返信・引用
  以前にも書いたことであるが

七間町(しちけんちょう)は、中区丸の内二丁目から錦二丁目にかかる南北の通りの町である。昭和41年3月、戦災復興都市計画と、それにともなうように住居表示の実施によりこの名前は消失した。
江戸時代は、上七間町、下七間町の二町があり、橋弁慶を出していたのは下七間町である。明治初年に、上七間町は、七間町一・二・三丁目。下七間町は四・五丁目になった。

昭和になっても四丁目五丁目が、橋弁慶車を曳きだす町に変りなかった。昭和11年から工事の始まった桜通りの拡幅に際して、大幅に町域が狭くなってしまう。

町総代制度から、町内会に発展した昭和15年、はじめて両町は統合されて七間町町内会(会長安阿弥治郎左衛門)が発足した。

「七間町橋弁慶車 お囃子の復活」(森零監督)に挿入されている記録映像(「汎太平洋平和博覧会」昭和12年)に、滝兵ビル(現名古屋東京海上日動ビルディング)前の桜通りで休憩する弁慶車がとらえられているが、ちょうど笹竜胆の紋の染め抜かれた霞幕を張っている。
別名源氏車の名にふさわしいよい意匠だ。

おそらくこれが最後の橋弁慶車の動く映像であろう。

この年の7月におきた盧溝橋事件に端を発し、戦域は拡大していった。
 

東照宮祭七間町

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月19日(水)06時30分28秒
返信・引用
  名古屋東照宮に、橋弁慶車で使われた弁慶と牛若丸の頭が保存されている。

これは、空襲から焼け残ったものを、戦後、七間町の旧家である安阿弥清三(やすあみ・せいぞう 大正3年頃の生れ)氏が奉納したものである。2001年に氏から直接聞いたところによるが、取材メモを紛失しているのでこれも記憶によるものであることをご容赦願いたい。

同じく七間町の旧家である高木文子氏(2010年聞き取り)によると、弁慶の頭は、高木家で保管していたものという。

安阿弥家は、代々「御箔屋・おはくや」治郎左衛門をなのり、金箔や金屏風などを取り扱っていた。
高木家は、「尋屋・ひろや」の屋号で、仁右衛門(にえもん)を襲名し。名古屋仏壇の元祖といわれる家である。

平成元年ころ橋弁慶のからくりを名古屋市が復元するが(今、名古屋能楽堂にある)お囃子がわからないということで能の曲からを採っている。
この復元に際してお囃子を、七間町に住んでいた林、柴田、安阿弥、岩田、高木の各氏に問い合わせたがわからないということであった。

戦後は、佐藤国三郎氏が唯一のお囃子の承継者として、有縁の人々を集って演奏を行っていた。記録では昭和37年の郷土芸能祭(名古屋まつりに際して行われる)での演奏が最後と思われる。プログラムを見ると「道行」「帰り」と2曲演奏している。

間下浩之氏(詳細はYouTubuまたは「七間町橋弁慶車 お囃子の復活」(森零監督))は、七間町の出身ではないが、氏が呉服商、佐藤氏が刺繍職人という仕事の上での関係があり、佐藤氏の主宰する七間町おはやし保存会に参加していた。
間下氏によると、佐藤氏には子どもがいなかった(どうも戦死された?)こともあり伝承が途絶えている。

前述の安阿弥氏は、他町から養子で入られたこともあり。一度だけ(昭和11、12年ごろ)付太鼓をやったのみとのことであった。
 

東照宮祭(2件どちらもピントがあまい)

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月19日(水)05時00分2秒
返信・引用
  『名古屋』 (名古屋情報写真協会 昭和17年)
中市場町石橋車 撮影地本町通り 伊藤銀行本店(現在のアイリス愛知)前
撮影時期 昭和3年から12年ごろまでか


『荒川百三十年』 (荒川長太郎合名会社社史編纂委員会/編纂 昭和57年)
京町小鍛冶車 撮影地本町通り 撮影時期昭和3年から12年ごろか
 

新道の天王祭り 

 投稿者:備忘録  投稿日:2014年 3月18日(火)21時47分8秒
返信・引用
  愛知玩具人形組合百年のあゆみ(昭和54年発行)
昭和11年の新道通りをいく山車の写真あり

大阪朝日新聞(昭和12年5月12日付 市内版 大阪朝日新聞名古屋支社発行)
散手車と思われる山車の写真あり 場所は江川線か


 

中市場町のこと

 投稿者:健忘症  投稿日:2014年 3月 8日(土)22時37分42秒
返信・引用
  京町通りを東へ大津通りを越えると、中市場町がある。
さかのぼること69年前、3月12日、19日の空襲、5月14日の空襲は特に名古屋中心部が焼けた。

町内では12と19の二回にわたり、北側、南側と焼けた。
現在もある木屋という酒屋の奥さん(故人)に聞いた。

奥さんが嫁いだ年のおまつりでは店前で、からくり、お囃子をしてもらってこと。
山車の保管をお願いされたこともあったが、倉庫は商品で使っていたので断ったこと。

空襲で燃えたとき商品の味噌が焼け、なんとも芳しい匂いが漂ったこと。裏隣の娘さんが婚礼目前に、焼死されたこと。

木屋の西隣に住むおばあさんには、山車が町内に戻るときは、各家1人は出て提灯を持って迎えにいったこと。

木屋さんの向かいには、右左見という家が数年前まであった。
その家は江戸時代から続く薬種問屋であった。以前町内会長もされたこともある。
1998年ごろ訪ねたときは、おばあさん一人で住んでいらっしゃった。

中市場の山車(石橋車)は、最期は中市場町二丁目(現在は久屋大通公園)北側にあった松田という油商の蔵に収められていた。
右左見さんには焼け残りの金具を見せていただいた。L字型の厚みのある鍍金されているようなものであった。10センチ×5センチくらいのもの。以前は他にもあったという(鈴?)

忘れないうちに記します
 

いらっしゃ~い

 投稿者:西組の『紙ヤさん』  投稿日:2014年 3月 6日(木)20時43分40秒
返信・引用
  半田市博物館 館長樣よりご依頼ですが、3月22日に 遠州森町の祭人達が、博物館に山車の見物に来られるとの事、ところが、現在博物館は 各地の祭りのに空き家です、先日まで 当組が展示
していたのですが・・・それで森町の人々が、当組の会館・山車鞘に見物にいらっしゃる事に
成りました。 大歓迎デスねー 森町の皆様マイクロバスでお越しになる様ですが、道中
十分気をつけて お越しください! 飲み過ぎにも注意デスねー
 
    (nova) その1週間前にお出でになれば乙川まつり、1週間後は知多半島各地や犬山まつりが開催されてましたのにね.
 

寿老人車

 投稿者:朱高欄  投稿日:2014年 3月 4日(火)00時25分13秒
返信・引用
  novaさん、若宮祭礼絵図お見事です。7輌全て完成してますか?  

寿老人車です

 投稿者:nova  投稿日:2014年 3月 1日(土)23時50分24秒
返信・引用
  明和~天明年間の若宮祭を描いたとされる祭礼絵図の模写です.
 

若宮祭寿老人車のこと

 投稿者:よしのや  投稿日:2014年 2月23日(日)08時10分53秒
返信・引用
  昨日、名古屋本町通りの旧鉄砲町二丁目(江戸時代は中須賀町)の居酒屋で飲食をしておりました。

お祭り好きの諸兄なら、ご存知の寿老人車を出していた町です
明治末以降、参加した形跡がなく(新聞記事など調べ)
もはや幻といってよい山車です。

15年ほどまえ、大正初年生まれの旧鉄砲町二丁目で生まれ育った方、2名にお尋ねしましたが
どなたもご存知ないようでした。(すでに故人)

『紅葉舎類聚』という本が昭和52年に出ております。
紅葉舎もみじや、とは紅葉屋・名古屋の豪商富田家のことです。
幕末、洋反物を商い飛躍的に成長し、明治になると会社経営、財閥化していきました。
現在も、子孫は、電子・機械関連の会社を経営しておられます。

手元に本がないので多少の誤謬はお許しいただくとしまして。

これには、明治10年代の囃子方の規定が載っております。
また大正初年まであった富田邸の前で、空木建・飾りつけをしたことが記載されています。

昭和56年に若宮八幡社から出された『若宮』という小冊子には、
富田家の分家にあたる富田孝造氏の手記に
明治の子どものころのお祭りの様子が記されております。

それにしても謎の多い山車であります
 

昭和の終わりごろ(末広町にて)

 投稿者:よしのや  投稿日:2014年 2月16日(日)08時26分21秒
返信・引用
  さて今年も残すところ318日、皆様方にはご清祥のこととお喜び申しあげます。

末広町神楽団(すえひろちょう・かぐらだん)が平成元年より活動停止してずいぶんと経ちました。四半世紀。昭和のこともわからなくなるということで記憶を呼び覚まそうと思います。

さて私が関わっていたのは昭和61年から平成元年わずかの期間です。それも子供としての立場ですので、細かいことはわかりません。

神楽団とは、大正中ごろに、旧来の囃子方を改組したもので、戦前は、青年団とほぼ重なっていました。
四月くらいから社務所をかりて、お囃子の稽古、子供の仕舞の稽古がありました。

戦前はよくわかりませんが、能の囃子方の先生もご指導はあったようです。小鼓の青木恒治先生はいらしゃいました。青木先生は門前町の指導もされていたようです。
伊勢門水や井上菊次郎、少し時代が下ると井上新三郎といった和泉流狂言師など、指導者には事欠かなかった思います


私の知るのは、笛の筧三男先生、太鼓の助川龍夫先生です。

黒船が焼けてからは、昭和25年くらいに祭礼のときは仮説舞台をつくり、後に、黒船を模した舳先をつくりました。これらも若宮境内北にある土蔵にしまってありましたが、平成6年の祭りのあとに廃棄され残念です。

山車にかかわるのは男子のみという不文律があります。永らく守られておりましたが
昭和後期に、子供の舞い子に限り、女子が参加しております。末広町以外にも、鉄砲町、住吉、矢場町の子もいました。
 

あれ?投稿の名前が・・・

 投稿者:西組の『紙ヤさん』  投稿日:2014年 1月 5日(日)23時04分56秒
返信・引用
  投稿した名前が 久しぶりの書き込みで いじめかよ 酔っぱらっていました。   

もう1月5日.

 投稿者:西組  投稿日:2014年 1月 5日(日)18時07分16秒
返信・引用
  novaさん 尾張の山車まつり 落書きのーと 投稿者・愛読者の皆様 本年も宜しくお願い致します。  協和車西組の「おくるま」は、半田市博物館で年越しをしました。3月初旬まで、展示されます。 皆様 是非、博物館にお越しください 毎週月曜日は 休館です
10:00から17:00まで見物が出来ます
 
    (nova) 紙ヤさん、今年もよろしくお願いいたします.
改名されたのかと思いました.

この時期に博物館に行くと寝てる虫がうずきそう・・・
 

明けましておめでとうございます

 投稿者:高井 利治  投稿日:2014年 1月 3日(金)01時14分26秒
返信・引用
  novaさん、2014年明けましておめでとうございます。今年も、健康で無事故で、頑張って下さい。今年も、よろしく、お願いいたします。  
    (nova) 高井さん、明けましておめでとうございます.
はい今年も健康で無事故、そして不死身で!
 

謹賀新年

 投稿者:朱高欄  投稿日:2014年 1月 2日(木)00時04分49秒
返信・引用
  novaさん、明けましておめでとうございます。
本年も宜しくお願い致します。
今年のお年玉は寿老人車と西王母車ですね。昨年末の黒船車に引き続き、力作を掲載有難うございます。
残り4両も期待してますから。
さて、先代黒船車が現存する美濃市も今年60周年を迎え、山車、練り物、花みこし等が一堂に会する様です。
novaさん、なんと日程は5月3日みたいですよ。
 
    (nova) 朱高欄さん、あけましておめでとうございます.
さっそくのお年玉情報ありがとうございます.
5月3日って・・・(^^;)
 

御礼

 投稿者:朱高欄  投稿日:2013年12月31日(火)00時17分35秒
返信・引用
  novaさん、一年間有難う御座いました。毎日楽しく拝見させていただきました。
最後に黒船車ですか。黒船車の古資料は向かって右向きに描かれているのがほとんどですから、
これは珍しいですね。novaさんの力作ですね。市博物館絵巻の逆向きパターンでしょうか。
いよいよ明日は元旦です。神皇車は高牟神社でお囃子奉納から新年度の始まりです。
来年も筒井町天王祭を宜しくお願い致します。
 
    (nova) 朱高欄さん、こちらこそお世話になりました.
黒船車はご推察の通りです.
東照宮祭の絵図が左向きが多いのに対し、若宮祭が右向きなので・・・
年に1~2輌ずつ「どんてん」させております.
今年は黒船車でしたので、さて来年は(^^)
 

平成25年師走か・・・

 投稿者:カメ仙人  投稿日:2013年12月12日(木)03時20分57秒
返信・引用
  師走でも、カメは走らないもんですから。おそいレスですが。
本年の祭紀行が最終回アップ!
本当に今年も 尾張の山車まつり 楽しませていただきました。
こころよりお礼申し上げます。
最終回に登場させていただけたことも、これまた今年の記念になります。
それでは皆様 良いお年をお迎えください。
 
    (nova) カメ仙人様、今年もお世話になりました.
そして思いもよらない横須賀でのまつり紀行の出演お疲れ様でした(^^)

「まつり紀行」は終了しましたが、ひょっとしたら「まつり奇行」があるかも・・・
 

再び黒船車

 投稿者:nova  投稿日:2013年12月10日(火)22時03分56秒
返信・引用
  山田鉦七氏撮影の黒船車です  

12月を迎えて(また黒船の話題です)

 投稿者:よしのや  投稿日:2013年12月 7日(土)21時10分14秒
返信・引用
  今年残すこと20日余り、皆様方におかれましても、大変ご多忙のことと存じます
先日、平和公園の旦那寺の墓苑にて亡父母の墓参をいたしました

年に2回ほどしかいきませんので、公園を散策いたします
近くに、黒船の大幕波濤の図を描かれた梅逸先生の墓もありますので
参り、来年は若宮様の御祭礼は末広町が当番と申し上げました

ついこの間、和泉流狂言師佐藤友彦師とお話する機会がありました。
父上である亡秀雄師は末広町のご出身。つねずね黒船はいい山車であったと
おっしゃっていたそうです。
宮大工に黒船の模型を作らせたこともあったそうですが
できたものの「こんのもの黒船じゃない」と……

思い出は美しいものです

 

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