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夏樹静子300篇

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月21日(水)15時00分19秒
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   昨年秋、遅くても昨年中に取りかかる予定だった夏樹静子作品事典の編集作業に、ようやく入る。
 提案者のコンビニMは、公私ともに集中できず、実働部隊長のミステリ詩人Nさんも家庭の事情により、進まずにいた。
 まず、前提の初出調査に入るが、長短篇小説全300篇(単行本になった作品)のうち、約30篇の初出誌が不明。文庫版になると初出がないものが多数。初刊本でも、記載されていないのがある!
 先週から新古書店を廻り、手元になかった必要な文庫本の入手に勤しんだ(単行本は場所を取るので買わない)。まだ廻っていない店もあるが、それでも十数冊が増えた。当面の探索分は残り十冊弱。近在の図書館本の閲覧も進めた。さらに、ここ数日、あれこれネット検索をしながらデータ収集に努めたが、あと15点ほどが初刊で確認の必要あり。それでも不明は、残り何篇になるだろうか。
 ちなみに、1982年までの小説作品に関する著作目録は、信頼できるものが作成されていて、1983~98年あたりが、よくわからない(最新の著書リストに誤植は見ないが、2001年当時の徳間文庫の著書リストの収録作品名には、誤植が目立つ。それを、そのまま信用した二次使用も見る)。あと、エッセイ・対談などになると絶望的だ。いずれ、誰か夏樹の関係者が作成するだろうか。
 
 

花の1927年世代

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月20日(火)10時25分29秒
返信・引用
   各新聞(西部本社版)とも石牟礼道子に関する記事は続報中。
 米本浩二記者「不知火のほとりで―石牟礼道子の世界」(「毎日新聞」2.18)は第65回。当分、続くのではなかろうか(少なくとも、一周忌までは)。
 「朝日新聞」(2.20)は、「言の葉の渚―石牟礼道子の世界」(上原佳久記者)が始まった。「上」とされるが、何回続くのだろうか(3回?)。「朝日新聞」西部本社版は、葉室麟「曙光を旅する」・石牟礼道子「魂の秘境から」と月1回の2大連載を失い、追悼連載がしばらく続く。
 さて、いずれも「サークル村」に関わった女性たち。以下のように1927年(年度)に集中する。
 学年でいえば、2学年となるが、これはたまたまなのか。

 石牟礼道子(1927.3.11~2018.2.10)
 森崎和江(1927.4.20~ )
 河野信子(1927.9.2~ )
 森田ヤエ子(1927.10.1~2004.5.25)
 中村きい子(1928.3.20~1996.5.30)

 残されたお二人の長命を願うのみ。「サークル村」と直接には関係ないが、前後へ、さらにお二人を加えておこう。いずれも福岡県生まれ、福岡市で育つ。

 上野晴子(1926.12.9~1997.8.27)
 大西美智子(1928.1.10~ )

 大西美智子『大西巨人と六十五年』(光文社、2017.12)を、先日、久々に新刊書店を訪れ、入手してくる。文芸書ではなく、なぜか「タレント本」コーナーにあった。
 

年刊誌

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月19日(月)08時28分12秒
返信・引用
   年末には、年刊誌の発行が集中する。「あしへい」第20号(2017.12)は、何とか出せた。
 昨年末までに届いたうち、まだ目を通せずにいるのは、まさに枕頭に積み上げ、日々背文字だけは見ている。
 到着逆順に行けば、以下が未了だった。
「火の鳥」第27号(鹿児島市・火の鳥社、2017.12)
「草茫々通信」11号(佐賀市・書肆草茫々、2017.12)
「原爆文学研究」16(福岡市・原爆文学研究会、2017.12)
「感泣亭秋報」十二(川崎市・感泣亭アーカイブス、2017.11)
「福岡地方史研究」55(福岡市・花乱社〈発売〉、2017.9)
 それぞれに、友人・知人の文章が掲載されているので、遅れても遅れても、読むつもりではいる。思いがけない名前を誌面に見つける楽しみもある。「感泣亭秋報」には別府大悟さんが、「観光客と「さまよひ人」」を寄稿。「『小山正孝全詩集』の中から“私の好きな一篇”を書いてみないか、と誘われ、……生来の向こう見ず気質もあり」引き受けたという。文中に気配もないが、別府さんは花乱社代表。
 小山正孝や「四季」派詩人に関する論考が多いなか、蓜島亘「小山正孝の周辺(六)―漢詩逍遥」の次の一文に納得。
「かつて井上哲次郎(巽軒)という明治大正の知識人の雄として紙面で縦横無尽に八面六臂を揮いながらも、一方でその浅学を囁かれた人物がいたが、それも時代が下ってみれば、おもねって褒めた人も腐した人も定かならなくなっている。」
 平成、いや21世紀の今日も、「知識人の雄」の実態は変わらない。天狗堂主人がよく言っていた「馬鹿を相手にするな。馬鹿について書き残すと、相手の名前が残る」を想起する。同時代の馬鹿は無視しても、過去の忘れられた馬鹿には、時折愛着を覚えてしまうのは、何故だろうか。
 井上巽軒について、蓜島は「『新体詩抄』の最年少編者であり、明治末年に冨山房から出版した『日本朱子学派之哲学』『日本陽明学派之哲学』『日本古学派之哲学』の三書は昭和の戦時中まで長らく版を重ねた」と続ける。陽明学を知るには、たぶん役立たないと知りつつも、記憶の片隅に留めている。なお、前記『ふるさと人物記』には、井上哲次郎の名前を見ない。1950年代には地元・太宰府でも忘れられていたようだ。一度忘れられ、次に甦るときは「郷土の偉人」で、否定的側面は消されていく。
 上記、一部には年刊誌を標榜せず、実質的に年刊になっているのも含んだ。文学批評誌「敍説Ⅲ」も、同じ状態。さて、15号の編集作業を進めよう。
 

矢野酉雄の出身地

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月18日(日)08時20分7秒
返信・引用
   矢野克子を調べていて、よくわからなかったのが夫・酉雄の出身地だった。
 花田俊典『清新な光景の軌跡』では、「福岡県飯塚」としているが、これは嘉穂中勤務を誤認したのか。手元本には「大牟田?」と朱書きしているが、その由来・出典が不明だった。
 八女中学なら、現・八女市かとも察したが、このあたりがネット検索の限界だ。
 大牟田は、『ふるさと人物記』(夕刊フクニチ新聞社、1956.4)に依拠していた。「?」としたのは、ほかに裏付け資料がなく、100%信用できない新聞記事のため。ただ、以下の記述は参考になる。
「前参議(全国区)矢野酉雄は大牟田市上内の生れ。八女中、福岡師範を経て中央大法科、日大高師部を中退している。講談社に勤務したことがあるが、谷口雅春の主宰する生長の家教育部長のとき推されて全国参議に当選し厚生政務次官をやったが、推薦母体の生長の家と意見があわず、次の選挙には落ちた。一回ぎりの国会議員である。いまは教育公論社長をしているが、彼が有名なのは実は妻克子が北京で客死した日本共産党書記長徳田球一の実妹であることによるだろう。那覇の沖縄師範に奉職中、向い合せの沖縄県立一高女生の克子が兄徳球のソ連入りなどで世間から白い眼でみられている折「深く決するところがあって私の懐に迎えた」と語っているが、彼を知るほどの人はみな口八丁、手八丁の発展家で、とても学校の先生などに腰の落ちつける人ではなかったと語っている。まだ五十八歳の働き盛りである。」
 生前の記事なので、かなり信用度は高いはず。それにしても「口八丁、手八丁の発展家」には、本人・関係者は苦笑したのでは。昨今ならば、すぐに名誉棄損などと騒ぐ阿呆が出るだろう。
 それにしても、この『ふるさと人物記』は、今でも役立つ。「千倉書房千倉豊」は「大牟田市銀水田隈の出身で、神戸の鈴木商店に勤め欧米を視察して昭和四年千倉書房を起し」たという。1933年に九州日報社長を兼務したのは、やはり郷土の縁もあったのか。
 

矢野克子と生田花世

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月17日(土)09時55分54秒
返信・引用
   矢野克子は生田花世(1888~1970)に師事し、その晩年の世話もしたようだ。逝去直後の『生田花世詩歌全集』(木犀書房、1971)や伝記の刊行にも尽力したに違いない。
 第6詩集『克子詩集』には「あとがき」を、花世が執筆(解説は伊波南哲)。第4詩集『琉球』の「序」は栁宗悦、「跋」を林芙美子、矢野克子「あとがき」で「私をここまでひき出して下さつた生田花世先生に感謝」と記す。
 なお、第3詩集『ウクライナの墓標』の装画は田崎広助で、克子の詩作品のほか、竹内てるよ、生田花世らの矢野夫妻の二男・浩思への追悼詩も収録している。
 また、第5詩集『梯梧』には、1955年8月10日の日比谷公会堂追悼会で読まれたと思われる「挽歌―兄徳田球一の霊のささぐ」も収録。一部を紹介する。ここもイデオロギーより民族性(血族)が優先している。

ああやさしい兄よ
あなたは沖縄に生れた
わたしたちのふるさと沖縄は
どんなにあなたを待ったことか
亡びゆく沖縄を救い出してくれるものと
百万の魂が呼びつづけていたものを
沖縄をあのままにして
亡くなってしまった

はるかなる兄よ
あなたと立場を異にし
夫と共に生き抜く決意に
わたしは燃えている

 徳田球一・矢野克子は現・名護市の生まれ。
 

矢野克子の追悼詩

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月16日(金)08時59分20秒
返信・引用
   矢野克子は、夫・矢野酉雄(1897.10.6~1963.11.20)が主宰していた月刊誌「共悦」を、夫の没後も続けている。
 そこに毎月、詩を書いたようだ。長谷健追悼号(1958.2、32号)にも追悼詩「宵の明星」を掲載だった。
 「沖縄を愛した火野葦平」(『克子詩集』所収)も、そのような作品なのだろう。
「さりげなく迎え/さりげなく送る/その人/そのままに/庭の木々に陽の輝く/冬の朝/火野さんは/瞬間に冷たくなってしまったのか(以下略)」
 第2詩集『いしずゑ』(宝文館出版版『詩集』では、『いしずえ』)に、「学童疎開地を訪ねて(一)」という、越後川口に子供を訪ねた詩があった。そこに「子供は雪の子/往復一里の道を/頭巾の奥深く赤い頰を包んで/ゴンゾーの紐をしめて走る。」とある。「註 ゴンゾーとは藁でつくった長靴。ゴンゾーと云う小父さんがはじめてつくったのでその名をとったと言う」とも。
 そうか、権蔵さんは、越後新潟では子供用のごんず草鞋に、筑豊福岡では沖仲仕の蔑称に名をとどめたのだった。
 なお、矢野酉雄は福岡県の出身。県立八女中学から福岡師範(どちらも洋画家・田崎広助と同期)を出たあと、中央大学法科や日本大学高等師範科でも学び、福岡県で小学校訓導を経て、沖縄女子師範(この時期に講習科在籍中の克子と知り合ったのだろうか)、福岡県立嘉穂中学の教諭から、講談社、生長の家に入り、教育評論家・ジャーナリストとして活躍した。1947年、参議院議員(全国区)に当選、緑風会に属する。克子の実兄・徳田球一も同時期に衆議院議員だった。もちろん徳田の所属は共産党。
 

「脈」96号/東峰夫特集

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月15日(木)09時20分19秒
返信・引用
   沖縄の比嘉加津夫主宰の文芸誌「脈」の最新96号(2018.2.20 本体定価1400円)が届く。
 今回の特集は「芥川賞作家・東峰夫の小説」。全240ページの半分以上、130ページが特集。東峰夫の小説「父母に捧げる散文詩」(40ページ)以下、13本の論考が並ぶ。表紙も東の近影。もはや「少年」ではなく、80歳相当の風貌だ。比嘉「編集後記」では、1000枚を越える作品を、本人が送ってきたという、
 特集以外も、興味深い論考が並ぶ。村上一郎「日記」は8回目。山口弘子「『無名鬼の妻』、その反響と晩晴」等々。
 なお、次号特集は「沖縄を生きた島成郎(仮題)」という。比嘉「乱読・断録」によれば、佐藤幹夫の『評伝島成郎―ブントから沖縄へ、心病む人びとのなかへ』は、筑摩書房から3月刊行とのこと(言視舎とうまく行かないのだろうか)。また、1年後の100号は「上野英信」特集に「決定」とされている。
 

「季刊やきもの」

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月14日(水)12時52分8秒
返信・引用
   北九州市小倉北区から出ていた「季刊やきもの」という小雑誌を見る。
 創刊は1975年8月で、№15仲秋号(1980.12)までが確認できた。15号「編集後記」では、「とに角、疲れ果てた思いです。一号出すたびに赤字をかかえ込み、苦しい本造りの毎号です」と泣言があるので、おそらく15号で終刊だろう。編集・発行は藤田渉。
 やきもの趣味はない。一時、茶碗ならぬ珈琲碗を集めたこともあるが、保存場所を確保できないので、やめた。集めた品物は、食器棚のどこか隅にころがっているだろう。
 さて、「季刊やきもの」を紹介するのは、冒頭に現代詩と焼物写真、あと文学者を主とした随筆欄が、一貫した編集方針だったため。玉井政雄は随筆の常連で、北九州近辺の方が多いが、11号(1978.12)には丸山豊も寄稿していた。この詩作品は逸文になる。

  十三夜
愁いはあまさずこの底に沈める
呪いはたっぷりこの中に注ぐ

愁いは消える無意識の闇に
呪いは絶える不条理の湖に

壺の紺青にしあわせあれ
月光釉薬にほこりあれ

一束の虫くい花に
にっこり会釈して犯されるまで

 添えられた写真は、井上萬二作「白磁彫文面取壺」。モノクロなので「紺青」も「月光」も不明。なお、丸山豊の詩作品の初出探索は継続中。特に1961~64年が重点箇所だ。
 

間のびた外交と間抜けづくり

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月13日(火)13時01分0秒
返信・引用
   前田俊彦『瓢鰻亭通信』(土筆社、1969.9)を、必要あって読んでいて、以下の話に、変に納得した。
「ちょっと余談ですけれども、ちかごろ政府筋の主唱で“人づくり”ということがいわれています。ある人がそれについて、《“人間つくり”といわねばならぬところを、“人づくり”というところをみると、あれは“間抜けづくり”のつもりだろう》といっていました。名言というべきでして、どうしたならば“人間”はできるかをかんがえずに、手段としての“人”づくりをいうようでしたら、どのみち、できる“人”は“間抜け”でしかありますまい」(第13号=1963.10.23。圏点は略した)

 前田の主要著書は、いつの間にか揃っていた(追悼集も所蔵しているのだが、現在行方不明中)。積極的に集めた記憶はないが、いつかは読まねばと長年思ってきたのだった。
 それにしても、50年以上も前の指摘が、生きているとは。「間」は、たぶん外交の方へ「間のび」して行ったのだろう。
 

イデオロギーより民族性

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2018年 2月12日(月)07時17分28秒
返信・引用
   ここ数年の北朝鮮と韓国に関する報道を見ていると、「イデオロギーより民族性」という自明の理が忘れられているように思える。
 国家体制は異なっても、同一民族という要素が優先するのは当然だろう。もちろん、「民族」も幻想(想像)の共同体という批判も可能だが、過去の歴史で幾多の分裂国家(相互に戦争もした)を乗り越え、「統一」を実現してきた記憶は、現在も大きな力を持つはずだ。
 そこに注視せず、安倍並の低俗で冷ややかな論評を、TVなどで見聞するのは、きわめて不愉快だ。
 揶揄的に称される「ほほえみ外交」、結構だろう。法制度上、自らの先制攻撃ができないため、アホの一つ覚えで「圧力、圧力」と叫ぶ、ジャイアンを後ろにした「間のびた外交」など、当初から見透かされている。そんな現実性の乏しい、いや実現させてはいけない手段より、よほどマシだ。
 

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