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葦平論

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 2月17日(金)17時59分48秒
返信・引用
   越前谷宏さんから、「火野葦平『土と兵隊』論―文学性とその限界―」の抜刷(龍谷大學國文學會「國文學論叢」第62輯、2017.2)が届く。
 昨年12月の「『麦と兵隊』論―検閲との攻防―」に続き、兵隊作品を正面から攻めていただいている。
 受容の拡がりを映画・演劇、少年版を視野に入れ、背景についても同時代評や作品から、戦後の戦史・刊行日記まで及ぶ。村田和志郎『日中戦争日記』全7冊(鵬和出版、1984.2~86.8)は、生前の花田俊典も必読と言いながら、論考に活かすことは出来なかったか(ボクは未読のまま。長すぎる!)。
 
 

岡村淳

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 2月15日(水)08時30分48秒
返信・引用
   岡村淳さんの上映会が、福岡県飯塚市で開催される。

ドキュメンタリー作品ライブ上映会
~炭鉱夫として働いたこともある上野英信(記録文学作家)のブラジルでの足跡を辿って~
2017年2月25日(土曜)14:00~18:00(開演14:30)
飯塚市秋松408 飯塚市穂波公民館大ホール(電話0948-24-7458)
上映作品:消えた炭鉱離職者を求めて―サンパウロ編~記録文学者上野英信の足跡を南米にたどる~(上映時間 1時間54分)
講 師:岡村淳氏(記録映像作家)
テーマ:ブラジル移民になった記録映像作家のつぶやき
入場料:1000円(予約不要)
(資料代、今回の映画「消えた炭鉱離職者を求めて」の後編の制作資金協力として)
問合せ先 090-2580-2264(牟田)

 会場は、筑豊富士の近く。当日、遠賀川を下った場所で、お喋りの予定があるが、それは午前中で終るはず。鮭みたいに、遠賀川を遡上しよう。
 

帰還兵

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 2月14日(火)07時41分31秒
返信・引用
   大隈俊雄の「兵隊3部作」を読んでいる。
 第2作『帰還兵』(真人社、1941.7)のなかで、2度も火野葦平に言及する。
「夫が出征前と同じやうに作家として再出発することであるが、さうとすれば時局の波に乗つて戦争物を書き、素晴らしく売れるやうにならないとも限らない。彼女は迅くからそれを考へて、火野葦平といふそれ迄は全く知られてゐなかつた作家の戦争小説が非常な評判となつてゐることを戦地への便りに書き加へて、第一戦で働いてゐる夫が戦場の手記を送り届けてくれるのを、心待ちに待つてゐたことがあつた。」
「彼は戦地の私に、慰問の手紙を再三くれたし、慰問袋も送つてくれた。火野葦平の戦争物がその頃の読書界を賑はしたころ、戦場の私に、戦争物を書いたらどうだと勧めてくれたのは、武内君とこの杉下君である。この勧告を彼はその後もずうつと捨てなかつた。」
 『帰還兵』は、戦傷のため除隊となった大越軍曹の、東京での復帰生活から、1年後となった所属隊の帰還までを描く。出征前は、売れない劇作家だった作者と、ほとんど重なる。一言でいえば、つまらない。本人が、銃後の堕落を、戦場の兵士に託して説教するたびに、「いい気なものよ」と思ってしまう。
 何が、葦平作品などと違うのか? 世界はすべて、「私」=大越軍曹の視点から描かれていく。妻=美津子も、夫の世界からは一歩も出ない。
 それは、近代の「私」の持つ限界だろうか。いや、「私」をどう把握するかで、まったく異なる。葦平は狭い「私」に閉じ込めず、「私」を社会的・家族的関係性のなかに開いていく。「ひとり」=単独性に固執しない。だが、大隈の「私」は、その身心ともに個体性のなかに閉じ籠り、開いていかない。いくら「正論」(当時の「聖戦」下の「正論」)を述べても、ちっとも響かない。ひとりよがりの自己主張になっている。
 1940年代初頭、大隈俊雄の「兵隊3部作」が、本人とその周辺の期待に反して、受容されなかったのも、そのあたりに原因を求めていきたい。何でもかんでも、帰還作家ものが流行したのではなかろう。
 

折尾駅

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 2月13日(月)15時00分16秒
返信・引用
   折尾駅、および堀川界隈が、「朝日新聞」西部本社版福岡地域欄で、3回(1.15 1.22 2.5)にわたって大きく紹介されていた。「折尾―行き交うまちから」。
 1回目は折尾駅の駅弁売りのオッチャン。NHKFMラジオの「音の風景」でも、再びたびたび流れている(最近では太宰府2件なども放送されるので、福岡県内ローカル? かとも思う)。折尾駅の乗車数は、県内3位。JR九州管内でも、鹿児島中央・大分に続き5位という。熊本駅や長崎駅よりも、多いんだ。
 2回目は堀川再生の話。高倉健「幸福の黄色いハンカチ」も、堀川に掲げられ、一役買っているような話。
 3回目では、行きつけの角打ちのオバちゃんがメイン。この記事で知ったが、再開発計画では「堀川沿いの道路は、幅3.5mから10mに広がる」とのこと! オバちゃん「こんなとこに大きな道路造って何になる。大きな道路は裏にも横にもできるんだから、川を生かす遊歩道にしたほうがいいよ」。まさに正論。
 並行する大きな道路は既にある。むしろ駅前の遮蔽した堀川も開き、繫いだほうがいい。
 土建屋とアホ行政の考えそうな、道路拡張計画粉砕!! 京都の「哲学の道」にならぶ、日本の産業近代化を思索する「川ひらたの道」にしないか?
 

紀元節

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 2月12日(日)07時17分52秒
返信・引用
   昨日は紀元節。
 紀元節といえば、「紀元節と天長節には働く」ことを明言していた知人の編集者を思い出す。ほかの祝日はともかく、このふたつを認める「国民」には、与しないということだった。
 半ば自由人だからできることだったが、工場労働者や大企業では、なかなか貫徹しにくいだろう。また、紀元節はともかく、天長節関係は、「昭和の日」として残り、さらに「平成の日」も制定されるのだろうか(11月3日は、明治時代の天長節で、昭和に入って「明治節」。大正時代は8月31日だが、「大正節」は制定されず。また、「先帝祭」もあった=明治期は1月30日の孝明天皇祭、大正期は11月3日、昭和前期はなぜか歿日の12月25日=)。
 毎日が「非国民の祝日」のようなものなので、あらためて「国民の祝日」に働く必要もないが、とりわけ昨日は、一日中、部屋にこもって埃まみれの肉体労働をする(風呂に2回も入る)。ああ疲れた。
 

上原和

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 2月11日(土)10時38分27秒
返信・引用 編集済
   今朝の朝刊に上原和の訃報が掲載されていた。
 作業部屋から書庫へ至る動線上にも、あちこちに書籍が堆積している。書棚に整然と並んだ分はいいが、流動している箇所もある。その一番の箇所は書庫入口だ。
 そこに、ここ数年来、変わらずにいたのが上原和の数冊の本。代表作『斑鳩の白い道のうえに―聖徳太子論』など、初版(朝日新聞社、1975)に文庫版も2冊(朝日文庫、1984と講談社学術文庫、1992)になっていた。いずれも古書店頭で求めてきたもの。書庫を出るたびに、否が応でも目につく。
 何も、古代史や聖徳太子に興味を抱いて、買ってきたのではない。上原への関心は、詩人・荒津寛子の「恋人」としてのみ。書庫内に下手に配架すると、次に探すときに困る。行き場所が決まらず、ずっと入口に端坐していたのだった。
 上原和(うえはら・かず 1924.12.30~2017.2.9) 台湾台中市に生まれる。
 福岡市での九州大学法文学部哲学科時代に、荒津寛子(1928.11.8~57.3.24)と知り合い、恋愛関係に陥る。しかし、家業の金融業を継ぐため、寛子は婿養子を迎える。失恋した上原は、大和・斑鳩へ旅する……。家か恋か、金貸か学者か、まるで新派芝居の世界だ。
 しかし、西洋美術史を学んでいた上原は、この旅で聖徳太子に出会ってしまったのだ。何が幸いするか、わからない。ことに恋愛においては、失恋こそ転機である(もう、そういう機会もないだろうが)。
 訃報によれば、上原はカトリック教徒のようだ。極楽浄土ならぬ天国楽土があるとして、上原は誰に会いたいのだろうか。聖徳太子、いや荒津寛子であってほしい。

追記 読んでいなかった『斑鳩の白い道のうえに』に目を通していたら、火野葦平の名前が飛びこんできたので驚く。聖徳と慧慈の逸話(翌年、その祥月命日に入寂)に関して、「私たちの身辺においてすら、契り合わせたようにして、亡きひとの祥月命日にいのちの焰の消えてゆく伴侶の話を聞くからである。さきにも、夫の十三回忌を迎えた亡き作家火野葦平氏の妻ヨシノさんが、夫の祥月命日の一月二十四日に病床でいのち尽きている……多少とも、生前の火野氏に面識のあった私は、こうした話をきき、一入の感懐をおぼえずにはいられなかった」と。
 葦平は、荒津寛子を、一応のモデルとしたという「金銭を歌う」を書くにあたって、上原にも取材したのだろうか。それとも、九大時代の文芸活動で、出会う機会があったのか。
 

焼酎本

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 2月10日(金)12時28分19秒
返信・引用
   そうしょっちゅう焼酎を飲んではいないが(毎晩飲む必要はない)、買ってくるのは、焼酎ばかり。切れたからといって、すぐに補充することもない。アルコール依存症、もしくはその傾向性もないので、自宅にアルコールが1滴もなくても、一向にかまわない(今は、いただきものの缶ビールが、箱を開封せずにあるようだ)。
 20代にはウォッカの時代もあった。ロシアものだけでなく、国産の「樹氷」も(まだあるのか)。焼酎も、米、麦から泡盛といくらか好みが変わったが、今は芋ばかり。粕取りを好んだ時期もあった。
 Fさんの焼酎本(1978年)を読む。数年前に入手したまま、目に付く書棚に並んだままだった。あらためて振り返ると、これがFさんの唯一の単著に驚く。数多くの著作があると、勝手に思っていた。「さつま白波」を中心に取り上げ、国産ウイスキーとの販売競争を「薩英戦争」。透明白色系の蒸溜酒、ウォッカ・ジン・テキーラ・ラム(アブサンもか)と焼酎連合軍の、世界的に進む復権を「白色革命」。40年を経て、この戦争と革命はどうなったか、後日譚も知りたいところだ(漠然とは理解しているが)。今年は、本家「赤色革命」から100年(この話題は、今後も繰返し取り上げる)。
 また、Fさんの交遊関係や焼酎自伝(初体験から遍歴)を含め、あれこれと話が拡がり、それも興味深く読む。白秋「邪宗門秘曲」の解読もある。
 巻末に「全国焼酎銘柄一覧」がある。しかし「伊佐美」も「森伊蔵」も「耶馬美人」も、まだない。
 葦平作品の連載紹介で、カストリ雑誌に触れ、粕取り焼酎も紹介するが、誤ったことを書き残すところだった。酒としてカストリと粕取り焼酎の違いも、わかりやすく説明。助かった。
 

中島清

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 2月 9日(木)20時59分54秒
返信・引用
   4日から、風邪で数日臥せた。発熱はないが、食欲もない。身心ともに重く、働かない。咳は出る。何より鼻水に難儀した。あっというまに、ティシュ1箱が空になる。
 まだ、完全回復ではないにしても、何とか自然治癒力で克服できそうだ。

 そんななか、書物連鎖は続く。中山省三郎の追跡調査の一環(具体的にまとめる予定はない)で、蓜島亘『ロシア文学翻訳者列伝』(東洋書店、2012.3)を読んでいたら、中島清(1883~1966)なる人物に遭遇してしまう。アルツィバーシェフ『サニン』の訳者として。佐賀県人(佐人)。ドイツ語を学ぶなかで、ロシア世紀末作家に関心を持ったという。ほかに『労働者セヰリオフ』も。蓜島の紹介を読むと、ボク好みの来歴だ。「労働者(プロレタリア)」の臭いもする。さらに名前だけは知っていた『サニン』へと連鎖すると、虚無的夢想家の武林無想庵まで甦るではないか(辻潤から派生した武林関連の調査は、キリがないので、いい加減打ち切った記憶がある。『スカラベ』=中央公論社、1960.4=著者の宮田文子は、無想庵の元夫人。パリで無想庵を捨て去ったか)。
 

「酔いどれ船」と「地底の人々」

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 2月 3日(金)21時34分38秒
返信・引用
   作者名や作品名はよく知っていて、読んでいるようで、読んでない作品が無数にある。
 田中英光や織田作之助あたりも、その部類。田中英光「酔いどれ船」に津田剛をモデルとする都田二郎が登場すると知り、読み通す必要が出た。川村湊『〈酔いどれ船〉の青春』(1986年)も、初版刊行時に求めたままだった。作品を読まずに、批評から先に目を通すわけもいかない。
 太宰治の関連で、天狗堂主人の蔵書にないかと探したが、英光本が1冊も見つからない。仕方なく図書館本を借り出す。
 松田解子も、同じような存在。必要あって、花岡事件を描いた「地底の人々」を読む。
 何とか、図書館本で、初版・再版・自選集版が揃う。天狗堂主人の解子本は、代表作の『おりん口伝』を初め、数点が所蔵だった。ただ『地底の人々』はなかったので、初版を古書発注もした。手元に解子本は何かなかったか?
 以上、原稿が書けずに、逃避行動の一環。
 

浦上と谷川雁

 投稿者:スカラベ・ヒロシ  投稿日:2017年 1月31日(火)11時46分22秒
返信・引用
   谷川雁は「日本の二重構造」(1961年)のなかで、被爆地の浦上について触れる。
「長崎の浦上部落では老女から娘にいたるまで、部落内では一つの公理となっている次のような言葉をつぶやく。「浦上だからよかったのだ」ほかの部分が原爆の中心被害地だったら、あの地獄図に耐えなかったであろう。それを支えたのはキリシタン以来の自分たちの信仰だというのである。浦上といえば異教と貧困の重なりあった特殊地帯として差別されている土地」であると。
 この言葉は、30年後にも消えずにいた。
 短文アンソロジー『私の尊敬する人』(講談社、1990年)のなかで、「「浦上だからよかった」あるお婆さんの一言」として触れる。「その人に会ったことはありません。名前も知りません。それなのに、長崎市の浦上地区に生まれ、そこに育ったお婆さんの一言が、もう三十年も私の耳について離れないのです」と。
 雁が直接会ったのではない。「友だち」=森崎和江から聞いた話だ。
 雁は、「原爆をのりこえる名もない人間の力」を、この言葉に見た。1960年には「老女から娘」(あとでは「浦上の娘」と限定)だったのも、30年経てば、「お婆さんたち」一本になる。
 ただ、浦上=キリシタンで一括するのは無理がある。
 髙山文彦『生き抜け、その日のために―長崎の被差別部落とキリシタン』(解放出版社、2016.4)を読むと、浦上地区のキリシタンと被差別部落の複雑な歴史関係と現状が、少しは見える。原爆は被差別部落も直撃し、戦後復興の都市計画は地名も抹消していった。
 雁の視野には、被差別部落の存在も入っていたのだろうか。髙山は、1970年代に入って、浦上の被差別部落の取材に入った上野英信のことも伝える。
 

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